『ソーシャル・ネットワーク』雑感

毎週映画を観ても、
50本くらいしか見られないと思うと、
ふ〜むと考えてしまう。

というわけでもないけれど、
見られるときは映画館に行こうという決意のもと、
土曜日の夜は仕事帰りに『ソーシャル・ネットワーク』。
公開初日ということもあって満席でした。

Facebookをつくった青年の話。
(ネタバレも含むので、もし観たいと思っていらしている方はご注意を)

Facebookmixiもあんまり活用できてない身としては、
ソーシャル・ネットワークというものの価値や意味が
いまいちわからないのだけど。
人間ドラマというか、今の時代の人間像だったり、
ひととひとのつながりとか、まぁそういうものを考えた。
主人公は天才的な部分を持ちながらも、
ひとの心の機微というものの想像力が足りず、
自分でもうまく表現できない人物として描かれている。
まぁ、そういう人間って多数ではないとは思うけれど、
ひととひとのつきあいのめんどうくさい部分を
どんどんはしょっていくと、ああいう人間が増えていくのかなと思う。
(そうなったときには、そういうひと同士で、また別なコミュニケーションの
仕方が広がっていくのだと思う。それも時代の流れだと思う)
「まとも」な感覚を持っている親友や彼女がついていけなくなるのは、
ズレとしか言いようがない。(主人公が本気の悪意を持っているわけではなく。
だからこそ始末に負えないのだけどね)
ストーリーの横軸になっている、「訴訟」も、
結局はひととひとが関わり合うことによるもめごと。
よいことも、悪いこともすべてひととひととの間で起きる。

あと思ったのはFacebookにしろ、mixiもそうだけど、
最初は排他的な発想から始まっているところ。
広がってしまえば意味がないけれど。

ハーバードなどの伝統校のフラタニティ(クラブ)の描かれ方も、
皮肉っぽくておもしろかった。
今はそういう時代ではないだろう、アメリカは実力主義だと言いつつも、
特権階級、エリート同士のネットワークというものも存在するという側面。

例えば、アイディアを盗まれたと、双子の兄弟が学長に訴えに行くところ。
秘書の女性に「古いモノだから気をつけて扱え」と言われる一方で、
学長には「親のコネを使って面談をしようというのが気にくわない」と言われる。
古さと新しさの対比。伝統と実力。

それにしても人間って、
急にお金を持っちゃうとクスリとか、くだらないパーティで
バカ騒ぎとか、そういう発想しかできないものなのかなぁと
つくづく。
それさえ主人公は興味ないんだけどね。

彼がしたかったことは、
自分の才能をアピールしたかったことだけ。
自分をバカにした奴ら、振った彼女に。

それにしても、実在の人物の話だけに、
これってモデルの許可とかとっているのかな?
許可したとしたら、すごいなと思う。